私は強迫性障害がひどかった頃、頭の中がいつも忙しい状態でした。
「あれは汚れている」
「さっき、あそこに触った」
「その手で次に何を触った?」
「家に帰ったら、先に服を脱いで、それから手を洗って……」
一つの強迫観念が浮かぶと、そのことだけでは終わりません。何に触れたのか、そのあとどこに触れたのか、帰宅したらどの順番で服を脱ぎ、手を洗い、何を拭けばいいのか。そこから新しい確認事項や対処の手順が、次々と増えていきました。
しかも私は、それらを忘れてはいけないと思っていました。忘れてしまえば正しく対処できなくなる。一つでも抜ければ、気づかないうちに汚れを広げてしまうかもしれない。そんな不安があったため、身体は別のことをしていても、頭の中ではずっと強迫への対応会議が続いていました。
そこで始めたのが、普通のノートへの書き出しです。今の自分が「覚えておかなければならない」と思っている出来事を、そのまま紙に移すようになりました。
ノートに残っているなら、自分がずっと覚えていなくてもいい。必要になったら、そのページを見ればいい。
そう思える場所を作ったことで、頭の中で何度も出来事を再生する回数が少しずつ減っていきました。忘れないために書き始めたはずなのに、結果として、私はようやく忘れられるようになったのです。
この記事では、私が実際に続けていたノートへの書き出しと、それによって頭の中の強迫を少しずつ手放せるようになった経緯を紹介します。
強迫観念だけでなく「覚えておく作業」に追われていた
汚染恐怖が強かった私は、単に「あれが汚い」と感じていただけではありませんでした。何に触れたのか、そのあと何を触ったのか、帰宅したら何をどの順番で処理するのか。一つの出来事から生まれた情報を、一式まるごと覚えておこうとしていました。
たとえば、外出先で気になる場所に触れたとします。すると、頭の中ではすぐに次のような処理が始まります。
- 右手で触った
- その右手でカバンを持った
- カバンが服に触れた
- その服で椅子に座った
- 帰宅したら、まず服を脱ぐ
- そのあと手を洗う
- 手を洗うまでは、家の中の別の場所に触れない

一つの出来事は、一本の線のようにつながっていきます。右手からカバンへ、カバンから服へ、服から椅子へ。頭の中では、触れたものの経路と、あとでしなければならない対処がひと続きになっていました。
しかも、そこで終わりではありません。
途中で別のものに触れれば、そのたびに新しい線が増えていきます。
「あのあと財布を触った」
「財布をカバンに戻した」
「カバンの中に入っていたものも気になる」
こうして頭の中には、処理しなければならない案件が次々とたまっていきました。そして私は、そのすべてを片づけ終えるまで、一つも忘れてはいけないと思っていたのです。
忘れてしまえば、汚染の経路が分からなくなる。順番を間違えれば、せっかくの対処が無駄になる。気づかないまま、汚れを家中に広げてしまうかもしれない。
だから何度も頭の中で出来事を巻き戻し、触れた順番や帰宅後の段取りを確認していました。私にとってつらかったのは、強迫観念が浮かぶことだけではありません。そこから生まれた大量の情報を、忘れないようにずっと抱え続けなければならないことでした。
忘れることは「危険を見落とすこと」だった
強迫性障害ではない人から見れば、「そんなことは忘れればいい」「必要になったら、あとで考えればいい」と思うかもしれません。
けれど、当時の私にとって、忘れることは単に記憶が薄れることではありませんでした。汚染の経路や対処の順番を忘れることは、危険を見落とすことと、ほとんど同じ意味だったのです。
私の中では、次の二つが強く結びついていました。
覚えている=必要な対処ができる
忘れる=対処できないまま汚染が残る
だから忘れないように、何度も同じ場面を思い返します。
「あのとき、どちらの手で触った?」
「そのあと先に触ったのは、カバンだった? 服だった?」
「帰ったら、どの順番で処理するんだった?」
記憶が少しでも曖昧になると、頭の中で場面を巻き戻しました。正しく思い出せた気がしても、しばらくするとまた不安になり、最初から確認し直します。
今振り返ると、私は出来事そのものを覚えていたというより、未来の不安に備えて、頭の中に証拠を保管していたのだと思います。
あとで「何かを見落としたかもしれない」と不安になったとき、判断する材料がなくならないようにする。そのために、触れたものや順番を何度も思い返し、出来事を頭の中にとどめ続けていました。
しかし、強迫性障害の頭の中には「これで保存できた」という合図が出ません。何度覚え直しても、本当に正確なのか分からず、記憶を固定しようとする作業そのものが終わらなくなっていました。
記憶を何度確認しても「本当に合っているのか」と確信できない仕組みについては、「強迫性障害で『記憶に自信がない』のはなぜ?確認しても不安が消えない理由」でも詳しく解説しています。
覚える代わりに、普通のノートへ書き出した
私が使っていたのは、特別な日記帳でも、決められた書式のあるノートでもありません。ごく普通のノートに、頭の中で何度も繰り返している出来事を書き出していました。
何があったのか。何を汚いと思ったのか。そのあと、どこに触れたと思っているのか。そして、これから何をしなければならないと考えているのか。
頭の中で忘れないように抱えていたものを、そのまま紙の上へ移していきました。
文章としてきれいにまとめる必要はありません。誰かに見せるものでもなければ、自分の気持ちを丁寧に分析するためのものでもありませんでした。
たとえば、頭の中で次のようなことを繰り返していたとします。
外で気になる場所に触れた。
その手でカバンの持ち手を触った。
カバンが上着に当たった。
帰宅後は、上着を脱いでから手を洗う。
カバンは手を洗ったあとに移動する。
私は、こうした内容を考えていた順番のままノートに書きました。出来事を整理して正しい答えを出したかったのではなく、今の自分が「忘れてはいけない」と思っているものを、ひとまず頭の外へ移したかったのです。
「ノートを見ればいい」と思うと、頭から降ろせた
ノートに書いたからといって、強迫観念がすぐに消えたわけではありません。汚いと感じるものは、書いたあとも変わらず汚く感じますし、不安そのものがなくなるわけでもありませんでした。
それでも、一つだけ大きく変わったことがありました。
自分の頭だけで、出来事を保管し続けなくてもよくなったのです。
それまでは、忘れた瞬間に大切な情報が失われ、必要な対処ができなくなる気がしていました。けれど、ノートに書いてあれば、私の記憶が薄れても、書いた内容までは消えません。
必要になったら、ノートを見ればいい。
そう思えるようになると、頭の中で何度も場面を再生し、記憶をつなぎ留めておく必要が少しずつ減っていきました。

私は最初から「忘れよう」としたわけではありません。むしろ反対で、忘れてしまうのが怖かったからこそ、ノートに書き始めました。
けれど、忘れても取り戻せる場所を作ったことで、ようやく頭から降ろせるようになりました。何度も繰り返していた脳内確認が減るにつれて、出来事の輪郭も少しずつ薄れていったのです。
ここが、私にとってノートへの書き出しが役立った、一番大きな理由でした。
忘れないために書いたのに、結局ノートを見ないことが増えた
書き始めた頃の私は、本当に必要になったらノートを見返すつもりでした。あとで確認できる場所があるからこそ、安心して出来事を頭から外せたのだと思います。
けれど実際には、あとになってノートを開かないことも多くありました。
書いた直後は、
「これは絶対に忘れてはいけない」
「帰宅後に必ず確認しなければならない」
と思っていたことでも、少し時間がたつと、あれほど強かった切迫感が弱くなることがあります。
数時間後には、「そういえば書いたけれど、今はもう見なくてもいいか」と思う。翌日には、何を書いたのかさえ思い出せないこともありました。

当時は絶対に忘れてはいけないと思っていたのに、時間がたつと、その情報を取り戻す必要すら感じなくなる。それは私にとって、少し不思議な変化でした。
それまでは、強迫観念が浮かんだ瞬間の緊張感を、頭の中で何度も場面を再生することによって、自分で保ち続けていたのかもしれません。
ノートに書いて再生を止めると、出来事は少しずつ過去になっていきます。今すぐ処理しなければならない緊急案件だったものが、時間とともに、ただの「昨日気になっていたこと」へ変わっていきました。
ノートは、出来事を永遠に保存するためのものではありませんでした。強迫観念が持つ切迫感が弱まるまで、一時的に預けておく場所だったのだと思います。
私がしていたノートへの書き出し方
私がしていたことは、とても単純です。頭の中で何度も繰り返していることに気づいたら、そのまま普通のノートへ書き出していました。

頭の中で繰り返していることを書き出す
同じ出来事を何度も思い返していると気づいたら、そのとき頭の中にあるものをノートへ移します。
私の場合は、次のようなことを書いていました。
- 何が起きたと思っているのか
- 何に触れたのか
- そのあと何を触ったのか
- 何を覚えておかなければならないと感じているのか
- どのような対処の順番を考えているのか
大切なのは、出来事を詳しく分析したり、汚染の経路を正確に突き止めたりすることではありません。今、頭の中で持ち続けているものを、目に見える場所へいったん移すことです。
頭の中と同じ順番で、そのまま書く
読みやすい文章に整えたり、内容をきれいに分類したりする必要もありません。
頭の中で、「これに触った。そのあと、あれにも触った。帰ったら先にこれをする」と考えているなら、その順番のまま書きます。言葉が途中で切れていても、同じ内容が重なっていても構いません。
書きながら、「これは気にしすぎかもしれない」「本当は汚れていないはずだ」と、自分の考えを正そうとする必要もありませんでした。私にとっては、考えを整理するというより、頭の中にたまっているものを外へ出す感覚に近かったからです。
書いたあとは、覚えておく仕事をノートに任せる
書き終えたら、自分にこう言い聞かせます。
ここに書いてあるから、今は覚えていなくていい。
必要になったら、あとで見ればいい。
「もう二度と思い出さない」と決意するわけではありません。むしろ、あとで見てもいいという余地を残しておくことで、今この瞬間に、頭の中で抱え続ける必要をなくしていました。
私の場合は、その余地があったからこそ、結果としてノートを見返さずに済むことが増えていきました。
書くこと自体が強迫にならないために
ノートへの書き出しは、私には役立ちました。けれど、使い方によっては、書くこと自体が新しい確認行為になることもあります。
ノートの上で確認を続けない
たとえば、次のような状態です。
- 汚染の経路を一つも漏らさず記録しようとする
- 書き方が正しいか何度も確認する
- 同じ出来事を書き直す
- 書き忘れたことがないか考え続ける
- ノートを何度も見返して安心しようとする
こうなると、頭の中でしていた記憶の管理を、今度はノートの上で続けることになります。
私にとって大切だったのは、正確な記録を完成させることではありませんでした。多少内容が抜けていても、文章が途中で終わっていても、頭の中で何度も同じ場面を再生する状態に、いったん区切りがつけばよかったのです。
また、最初から「一度も見返してはいけない」と決めていたわけでもありません。私自身、「必要になったら見ればいい」と思えたからこそ、覚え続ける力を少し緩めることができました。
ただし、書いたあとに何度もノートを開き、安心できるまで内容を確かめるようになれば、最初にしていた書き出しとは少し違うものになっていきます。
大切なのは、ノートを見るか見ないかだけではありません。
頭の中の反復から離れるために書いているのか
紙の上で安心を確かめるために書いているのか
その違いの方が、大きかったのだと思います。
書いても頭から離れない日もあった
もちろん、ノートに書けば、毎回すぐに頭から離れたわけではありません。不安が強い日には、書き終えたあとも同じ場面が何度も浮かびました。
「本当に全部書いた?」
「大事な部分を書き忘れていない?」
「書いた内容そのものが間違っていたら?」
そんなふうに、今度はノートに書いた内容が気になることもありました。
書いても離れない日は、離れないままでした。それでも、すべてを頭の中だけで抱え込み、何時間も記憶をつなぎ留め続ける状態よりは、どこかで区切りをつけやすいと感じていました。
この方法は、強迫観念を一度で消すものではありません。私にとっては、強迫観念と同じ場所に立ち続けず、ほんの少しだけ距離を取るための方法でした。
私が考え方を整理するうえで参考になった本は、「頭が休まらず眠れない夜に読みたい本5選」でまとめています。また、症状が強くなる時期との付き合い方については、「強迫性障害が再発したかも?症状が戻る理由と立て直し方」でも紹介しています。
私にとって、ノートは「忘れるための保管場所」だった

私はもともと、忘れないためにノートへ書き始めました。けれど結果として、ノートがあったからこそ、少しずつ忘れられるようになりました。
実際には、書いたまま一度も見返さなかったページがたくさんあります。そこには、当時の私が「絶対に忘れてはいけない」と思っていた出来事が、いくつも残されていたはずです。
けれど今では、その多くを思い出すことすらできません。あれほど重要に感じていた情報も、時間がたつと少しずつ切迫感を失っていきました。
私にとってノートは、不安の正解を書く場所ではありませんでした。いつまでも頭の中だけで抱えていなくてもいいように、強迫から生まれた案件を、一時的に預けておく場所だったのです。
忘れないために書く。
そして、紙が覚えてくれているあいだに、自分は少しずつ忘れていく。
一見すると矛盾しているようですが、私はこの方法によって、頭の中でいつまでも終わらなかった強迫への対応会議を、ようやく閉じられるようになりました。
