強迫性障害は「完全に治る」のか?私が寛解して気づいた、不安を抱えたまま生きるリアル

強迫性障害は「完全に治る」のか?私が寛解して気づいた、不安を抱えたまま生きるリアルのイメージ画

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電車の中で、ふと手すりやつり革に手を伸ばせるようになった。

以前の私なら、そもそも触れられなかった。
誰が触ったかわからないものに手を置くなんて、考えただけで頭の中に汚染ルートが広がっていた。

でも今は、少し気になりながらも手すりに触れることがある。
そのあと、「気になるな」と思いながら、その手でスマホを触り、そのままバッグにしまう。

強迫性障害の症状が寛解して電車の手すりに触れるイメージ画

不安が消えたわけではない。
ただ、前ほど不安に連れていかれなくなった。私にとっての寛解は、たぶんそういうものだ。

強迫性障害の寛解は「完全に治ること」なのか

だけど世間一般で言われる「寛解」について考えるとき、私はいつも少し引っかかる。

「寛解」と聞くと、なんとなく症状がきれいに消えて、もう以前のような不安には戻らず、電車の手すりも、公共トイレも、ドアノブも、何も考えずに触れる人間に生まれ変わるようなイメージがある。

私にとっての寛解は、治ったというより過ごしやすくなった感覚

でも、自分の感覚としては少し違う。

私にとっての寛解は、治ったというより、過ごしやすくなったという感覚に近い。

強迫観念がまったく浮かばなくなったわけではない。
汚れや不安に対する感度が、普通の人と同じになったわけでもない。
ただ、そこに以前ほど引きずり込まれなくなった。

それだけ、と言えばそれだけなのだけど、強迫性障害を持つ人間にとっては、その「それだけ」がとても大きい。

同じ手すりを見ても、考え始める人と考えない人がいる

強迫性障害は、もちろん脳機能の問題も関係していると思う。
不安や危険を感じる回路、違和感を拾う感度、確認したくなる衝動。そういうものが、普通より過敏に働いているのだと思う。

でも、それだけではなく、もともとの気質もかなり関係している気がする。

たとえば、電車の手すり。

何も考えずに触れる人もいる。
「まあ、みんな触ってるし」と思って終わる人もいる。
そもそも、手すりを触ったことすら記憶に残らない人もいる。

一方で、私はそこから考えが始まる。

この手すり、誰が触ったんだろう。
トイレに行ったあと、手を洗わずに触った人がいるかもしれない。
その人が何か汚れたものを触っていたかもしれない。
それが自分の手についたかもしれない。
その手でバッグを触った。
スマホも触った。
家に帰ったら、どこまで汚れが広がるんだろう。

こうやって、ひとつの手すりから脳内で勝手に物語が広がっていく。

普通の人にとっては「手すりに触った」で終わる出来事が、強迫性障害の脳では、なぜか壮大な汚染ルートのシミュレーションになる。
誰も頼んでいないのに、脳が勝手に危険予測を始める。しかもかなり真面目に入念に。

この「深掘りしてしまう脳の使い方」は、治療やセルフケアである程度弱めることはできても、完全に別人のように消えるものではないのではないか、と私は感じている。

脳のクセに新しいパターンを上塗りしていく

強迫性障害がよくなっていく過程では、不安に反応しない練習をする。

洗いたいけれど、洗わない。
確認したいけれど、確認しない。
安心したいけれど、安心を取りにいかない。
「大丈夫」と言い聞かせるのではなく、「大丈夫かどうかはわからないけれど、ここで終わる」と決める。

この作業を続けていると、たしかに症状は弱まっていく。

以前なら何時間も考えていたことが、数分で流せるようになる。
以前なら帰宅後に消毒祭りが始まっていた場面で、普通に夕飯の準備に移れるようになる。
以前なら一日を台無しにしていた違和感が、「まあ、気になるけど」と言いながら通り過ぎていくようになる。

でも、それは脳のクセが完全に消えたというより、古いクセの上に、新しい対応を上塗りしている感じに近い。

奥のほうには、まだある。

危険を探そうとするクセ。
白黒つけたくなるクセ。
不確かなまま終えることに抵抗するクセ。
「本当に大丈夫?」と、しつこく聞いてくる脳の声。

それらがゼロになるわけではない。

ただ、その声に毎回返事をしなくなる。
毎回、会議を開かなくなる。
毎回、脳内裁判を始めなくなる。

私にとっての寛解は、そういう状態に近い。

「ごまかして、うやむやにする」という高度な技術

正直に言うと、寛解している状態をきれいな言葉だけで説明するのは難しい。

「不安を受け流せるようになりました」
「強迫観念と距離を取れるようになりました」
「生活の主導権を取り戻しました」

どれも間違いではない。
でも、私の実感にいちばん近い言葉を選ぶなら、少し乱暴だけれど、自分の気質や脳の機能をごまかして、うやむやにして過ごしているという感覚がある。

もちろん、悪い意味のごまかしではない。

本当は突き止めたい。
本当は完全に安心したい。
本当は「絶対に大丈夫」と言い切れるところまで確認したい。

でも、そこまで行くと戻ってこられなくなることを知っている。
だから、あえて途中でやめる。

「ごまかして、うやむやにする」という高度な技術

「まあ、わからんけど、今日はここで終わり」
「気持ち悪いけど、これ以上は考えない」
「納得はしていないけど、生活を進める」

そうやって、完全には納得していない自分を連れたまま、日常に戻る。

これは、強迫性障害のない人から見れば、ただの普通の生活かもしれない。
でも、強迫性障害の脳を持つ人間にとっては、かなり高度な技術だと思う。

寛解は「不安がゼロになること」ではない

強迫性障害で苦しんでいると、どうしても「不安がなくなること」を回復だと思ってしまう。

もう汚いと思わない。
もう確認したくならない。
もう嫌な想像が浮かばない。
もう何も気にならない。

そんな状態を目指したくなる。

でも、私は今、それを寛解の基準にしなくてもいいのではないかと思っている。

不安が浮かんでも、強迫行為に戻らない。
違和感があっても、一日を丸ごと奪われない。
気持ち悪さが残っていても、予定をキャンセルしない。
「大丈夫」と思えなくても、洗い直しや確認を増やさない。
少し揺れても、前のように生活全体が崩れない。

これも、十分に回復だと思う。

強迫性障害の寛解は、白くて清潔なゴールテープを切るようなものではない。
どちらかというと、いつもの道にまだ落とし穴があることを知りながら、それでも前より転ばずに歩けるようになることに近い。

治った、というより。
過ごしやすくなった。

その表現が、私にはいちばんしっくりくる。

「また気になる」は、必ずしも再発ではない

寛解したあとも、強迫観念がふっと顔を出すことはある。

手すりを触って気になる。
鍵を閉めたか一瞬不安になる。
手洗いのあとに、まだ汚れているような感覚が残る。
何かを捨てたあとに、本当に捨ててよかったのか気になる。

そういう瞬間があると、「やっぱり治っていなかったのかな」と思ってしまう。

でも、私は今、そうは考えなくなった。

強迫観念が浮かぶこと自体は、たぶん完全には防げない。
大事なのは、そのあと自分がどこまでついていくかだと思う。

気になる。
でも、戻らない。
気持ち悪い。
でも、洗い直さない。
不安が残る。
でも、確認を増やさない。
頭の中で話が広がりそうになる。
でも、最後まで聞かない。

この「最後まで聞かない」が、寛解を支えている気がする。

強迫症状で脳が勝手に始めた長編ドラマを、第一話の途中で打ち切るイメージ

脳が勝手に始めた長編ドラマを、第一話の途中で打ち切る。
視聴率は高そうだけれど、こちらの人生が削られるので放送終了である。

私は、強迫性障害が完全に消えたとは思っていない

私は、自分の中から強迫性障害が完全に消えたとは思っていない。

たぶん、深掘りしやすい脳の使い方は残っている。
不安を拾いやすい気質も残っている。
「本当に大丈夫?」と考え始めるクセも、油断すると顔を出す。

でも、以前よりずっと過ごしやすくなった。

それは、強迫性障害がなくなったからではなく、強迫性障害に主導権を渡さない時間が増えたからだと思う。

不安が出ても、自分の一日を全部差し出さなくなった。
違和感があっても、生活の予定を全部変更しなくなった。
納得できなくても、そこで終わることを少しずつ覚えた。

それを「寛解」と呼ぶなら、私にとっての寛解は、かなり地味だ。

劇的な回復ではない。
別人のような変化でもない。
朝起きたら世界が変わっていた、という話でもない。

ただ、前より少し楽に暮らせる。
前より少し疲れにくい。
前より少し、自分の時間が戻ってくる。

それだけで、十分に大きい。

寛解は、強迫性障害を忘れることではなく、抱え方が変わること

強迫性障害の回復を考えるとき、私は「完全に治す」という言葉に少し苦しさを感じる。

もちろん、症状がなくなる人もいると思う。
長く安定して過ごせる人もいると思う。
その可能性を否定したいわけではない。

ただ、少なくとも私の感覚では、回復とは「強迫性障害の脳ではなくなること」ではない。

この脳のまま、どう暮らすか。
この気質のまま、どこで線を引くか。
この不安の出やすさを持ったまま、どこまで日常を取り戻せるか。

そこに近い。

強迫性障害は、気質や脳の使い方と深く結びついている。
だからこそ、寛解しても「完全に終わった」という感覚にはなりにくいのかもしれない。

でも、完全に終わっていなくても、生活は戻せる。
不安が残っていても、今日を進めることはできる。
脳が深掘りを始めても、その穴に毎回降りていかなくていい。

私にとっての寛解は、そんな状態だ。

治ったというより、過ごしやすくなった。
強迫性障害が消えたというより、強迫性障害に振り回される時間が減った。
不安がなくなったというより、不安があっても生活を続けられるようになった。

私にとっての寛解

それは少し曖昧で、少し頼りなくて、きれいな回復物語とは言いにくい。

でも、私はこのくらい現実的な寛解のほうが、強迫性障害と長く付き合ってきた人には、かえって希望になるのではないかと思っている。

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