強迫性障害と過ごしてきた時間の中から、今も時折思い出すワンシーンを綴っています。
スーパーでペットボトルのお茶を買う。ただ、それだけ。
普通の人なら、棚に手を伸ばし、目についた一本をカゴに入れ、レジを通す。数分もかからない。しかし、当時の私にとって、それは国家の存亡を左右する安全保障問題だった。飲料棚の前に立った瞬間、私の脳内では緊急事態宣言が発令され、最高レベルの危機管理体制が稼働する。
まずは商品選定。私は一本目のペットボトルを手に取った。キャップを見る。リングを見る。ボトルをくるりと一周回す。
「……うーん。」
その瞬間、脳内会議室のマイクが入る。「はい、危機管理本部長から意見が出ました。」静まり返る会議室。すると、すぐに別の部署が立ち上がる。
「異議あり!キャップの角度が0.2度怪しいです!」
ざわつく脳内議場。「確かに、少し浮いているようにも見えます!」「照明の反射では?」「いや、いたずらで開封された可能性も否定できません!」「そのような事件の前例はあります!」
さまざまな熱い議論が繰り広げられるなか、私は棚の前で微動だにしていない。傍から見れば、緑茶のラベルを熱心に読み込んでいる、こだわりの強い客に見えただろう。しかし脳内では、国家予算を使った緊急会議が始まっている。

数分後、議長が重々しく口を開く。「審議の結果、この一本は棚に戻すことと決定しました。」私は無言でペットボトルを戻し、二本目を手に取った。
……また会議が始まる。
二本目のリングは問題がなかった。だが、ラベルが少し斜めにずれている。ラベルの傾きと、中のお茶の安全性に直接の関係がないことくらい、理屈では分かっている。けれど、「ほかの一本と違う」というだけで、脳内ではその商品に薄い容疑がかかる。
「なぜ、この一本だけラベルがずれているのでしょうか。」
「製造過程の誤差では?」
「その説明だけで国民の安全を守れますか?」
守るべき国民は、私一人である。
だが危機管理本部は、少しも手を緩めなかった。二本目も棚に戻し、三本目を手に取る。
今度は、ボトルの側面に小さなへこみがあった。輸送中についたものかもしれない。でも、誰かが悪意をもって強く握った跡かもしれない。いや、その前に一度、床へ落とされた可能性もある。
脳内危機管理本部が、すかさず口を挟む。「床に落ちた可能性があるものを認可するわけにはいきません!」
落ちた証拠はない。だが、落ちていない証拠もない。そう言われると、確かにそんな気がしてくる。私はいつの間にか飲み物を選んでいるのではなく、全国ペットボトル未開封審査会の、たった一人の首席審査員になっていた。しかも、その審査員はたいへん厳しい。
疑わしきは、すべて棚へ戻す。
三本目も不採用となった。そして四本目。蛍光灯の光を反射して、キャップの表面にうっすらと皮脂の跡が浮かび上がった。
指紋。現場に残された痕跡を、鑑識が見逃すはずはない。
「指紋を発見しました!」
脳内会議室が一斉にざわめく。「誰の指紋ですか?」「特定できません!」「いつ付着したものですか?」「不明です!」「では、容疑者は?」「不特定多数です!」
スーパーの飲料売り場で、捜査本部が立ち上がった。製造や陳列の途中で誰かの手が触れた、ごく普通の跡だったのだと思う。けれど当時の私には、そんなふうには見えなかった。持ち主不明の指紋は、新しい容疑者の登場だった。
四本目も棚に戻す。こうなると、手前に並んでいる商品は、すべて不特定多数に触られているように見えてくる。ならば、奥にある一本を取ればいい。
ところが、奥の商品を取るためには、手前のペットボトルをよけなければならない。触りたくない商品をどかさなければ、触られていなさそうな商品にはたどり着けない。安全な一本を確保するためには、危険かもしれない数本との接触が避けられない。ここで作戦は完全に行き詰まった。
脳内では、強行突入案と撤退案が激しく対立していた。目の前にあるのは、ただの飲料棚である。しかし私には、触れれば大音量の警報が鳴るレーザー網のように見えていた。手前のボトルにできるだけ触れないよう、指先だけで少しずつ動かし、どうにか奥の一本を引っ張り出す。
ここまでの試行錯誤に要した時間は三十分。
たかがお茶である。
私はその一本をレジまで運び、無事に会計を済ませた。普通の人なら、ここでミッション終了である。しかし、本番はここからだった。
最大の関門。開封の儀。
開封音は、一度しか鳴らない。聞き逃しても、再試験はない。

遠くの館内放送も、通り過ぎる足音も、今だけは邪魔だった。私は深呼吸して、キャップに手をかける。呼吸を止め、ゆっくりと回した。
カチッ。
……今、鳴った?
いや、鳴った。鳴ったような気はする。でも、いつもより小さくなかった? 本当に今のが開封音だったのか。近くを通ったカートの音ではなかったか。聞こえたことにしただけではないか。
開封鑑識課が緊急出動する。「リングを再確認します。」キャップを見る。リングは切れている。少なくとも、そう見える。でも、もし一度開けられたものを、きれいに閉め直してあったら?
危機管理本部が議題を追加する。「音が小さかった件について、再審議をお願いします。」すると、安全対策委員会が資料を抱えて入ってくる。「確実にカチッと音を確認できていない以上、異物混入の可能性は否定できません。」
ニュースで、そんな事件を見たことがある。異物混入事件は、現実に起きている。毒物混入事件だって、過去にはあった。だから私は、自分がおかしなことを考えているとは思っていなかった。むしろ、「ちゃんと危険を避けようとしているだけ」と思っていた。
だから苦しかった。
普通の人も、未開封かどうかは確かめる。キャップを見て、音を聞いて、「あ、大丈夫そう」で終わる。
私は、その一行完結の納得にたどり着けなかった。
そこから会議が始まる。一つの確認が終わるたび、新しい部署が資料を持って現れる。「リングは切れています。」「しかし、音が弱かったです。」「キャップの位置も再確認すべきでは?」「指紋の件も、まだ解決していません。」
会議は終わるどころか、確認するたびに議題を増やしていく。脳内の官僚たちは、二十四時間休まず働き続けていた。当の本人は、ただ喉が渇いているだけなのに。
ようやく口元まで運んでも、まだ最後の審議が残っている。においは変ではないか。色は濁っていないか。一口飲んで、妙な味がしなかったか。少しでも違和感があれば、会議はただちに延長戦へ入る。飲むまでに何分もかかることもあった。一本を飲み切るまで、頭の片隅で審議が続くこともあった。
今振り返ると、笑ってしまう。百円ほどのお茶一本を飲むために、国家レベルの危機管理体制を発動させていたのだから。けれど、あの頃の私には笑い事ではなかった。
私は、誰かが毒を入れたと本気で信じ込んでいたわけではない。「絶対安全だ」と、百パーセント証明できないことが怖かった。
汚染恐怖は、まったく存在しない危険を一から作り出していたわけではない。現実にある、ごく小さな可能性を拾い上げ、それを目の前いっぱいに広げる。
「めったに起きない。でも、今回がその一回ではないと証明できるのか?」
そう問い続ける。
その問いに答えようとするたび、会議は続く。新しい証拠を探し、新しい疑問を作り、新しい審議を始める。だから終わらなかった。
今でも、コンビニやスーパーでペットボトルを買う。キャップを回し、カチッと音が鳴る。その瞬間、ふと、あの頃の自分を思い出すことがある。
長年続いた、あの脳内会議はもう解散した。でも議事録だけは、まだどこかに残っている気がする。

