こんにちは、よたきちです。

せっかくの休みの日なのに、気づけば頭の中で仕事の反省会が始まっている。
何もしていないのに、脳内だけがフルマラソンを走っているように忙しく動き続けている。
「将来への不安」という名のノイズを振り払おうとするほど、思考の回転は狂ったように加速し、焦燥感だけが積もっていく。そんな自家中毒のようなループを断ち切れないまま、また絶望の月曜日を迎えてしまう――。
強迫的な思考のループに囚われて、脳みそがオーバーヒートしそうになったとき、私が何度も思い出す場所があります。
長野県、蓼科(たてしな)高原。
ここは、「がんばって気持ちを切り替えよう」と自分にムチを打たなくても、勝手に心が静まっていく不思議な場所です。
よく「心を整える」と言いますが、ここでは少し違います。 狂ったように乱れていた心のチューニングが、自然と、いつの間にか合っていく。 抵抗するのを諦めたくなるような、そんな感覚です。
以前、森林の香り成分「フィトンチッド」について、研究データを交えた真面目な記事を書いたことがありました。でも、私が実体験として一番強く心に焼き付いているのは、データ云々よりもっと単純なことでした。
――頭の中の「うるさい音量」が、ピタッと下がること。
「考えちゃダメだ」と思えば思うほど、強迫観念は増殖していくもの。
けれど、この森の中では、その「止めよう」という必死の力みすら、どこかに消えてしまう。
気づけば「あ、もう、考え続けなくても生きていけるんだ」という安全な場所に、そっと着地しているのです。
今回は、そんな蓼科で過ごした時間を、写真とともに綴ります。
頭の中の独り言が忙しすぎて、もはや「休み方」が分からなくなっているあなたに、あの澄んだ空気が少しでも伝わったらうれしいです。
蓼科へ向かう途中、諏訪大社に立ち寄る
蓼科へと車を走らせる途中、ふと目に飛び込んできた「諏訪大社」の看板。予定にはなかったけれど、吸い寄せられるようにハンドルを切りました。本格的な森林浴を前に、自分でも気づかないうちに、脳内にこびりついた「心の澱(おり)」を清めたかったのかもしれません。早くも『戸締まり大丈夫だったっけ?』と囁き始めていた脳内を黙らせるように。

圧倒的な存在感の御神木を見上げたとき、枝の隙間から、ずっと止まらなかった「どうしよう」という思考が、するりと抜けていくのがわかりました。
「……まあ、もう、いいかな」
ひと通り歩き、自分の中でそう納得して車に戻る頃には、あんなに騒がしかった頭の中の独り言が、ふっと止んでいました。思い出そうとすれば、いつでも不安を手繰り寄せられる。でも「今はもう、わざわざ思い出さなくてもいいや」――。そんな、自分にとっては奇跡に近い直感を信じて、そのまま静かにエンジンをかけました。少し軽くなった心で、再び蓼科を目指します。
蓼科高原に到着して最初に感じたこと
窓を開けて車を走らせ、標高を上げていく。最初に感じたのは、空気の物理的な「軽さ」でした。
都会の空気が悪いとか、そういう小難しい話ではなく。ただ、ここには私の思考を邪魔する「余計なもの」が混じっていない。その単純な事実が、諏訪大社で少し隙間のあいた身体に、驚くほどはっきりと染み込んできました。

深呼吸をすると、なんの抵抗もなく胸の奥の奥まで空気が入っていく感覚。 いつの間にかガチガチに入っていた背中の力が、指先からじわっと溶け出していくのがわかります。
「ああ、生きててよかったな」
何の準備もなく、ふっと口をついて出てきた言葉。いつも武装している心から、静かに、けれど確実に力が抜けていく。そんな旅の始まりでした。
森の中のオーベルジュにチェックインする
今回泊まったのは、森の懐に抱かれるように佇む小さなオーベルジュ。ただでさえ脳内がにぎやかなので、静かに過ごしたくて、客室数の少ない、人の気配が穏やかな場所を選びました。

部屋に入って窓を開けたとき、実は少しだけ戸惑いました。音が、まったくなかったからです。
耳に届くのは、風が木の葉を揺らすさざめきと、遠くで鳴く鳥の声。それ以外は、驚くほど何も聞こえません。都会では、冷蔵庫の低い唸りや遠くのロードノイズなど、常に無意識の「ノイズ」に囲まれていて、それが強迫脳を刺激していたことに気づかされます。ここでは、その余計な膜が完全に剥がれ落ち、「本当の静寂」が耳に馴染んでいきました。
「……何か、しなきゃいけないんじゃないか?」
最初はそんなお馴染みの強迫観念に駆られ、意味もなく時計を見たり、スマホを触ろうとしたりしていました。「何もしない」が怖かったのです。でも、しばらく窓の外の木々を眺めているうちに、「あ、焦る理由、どこにもないわ」と気づきました。
景色を眺めながら、ただ座っているだけの贅沢。普段、自分がどれだけ多くの「外側の出来事」に過剰反応し、脳をすり減らしていたのか。それを優しく教えられたのは、他でもない、この森の静寂でした。
蓼科には、こうした森の中にひっそりと佇む小さな宿がいくつもあります。
私はいつも、まだ見ぬ静寂に想いを馳せながら、ゆっくりと宿の写真を見比べる時間(この妄想タイムが一番脳に優しい)から「旅」を始めています。
自分だけの「静寂」を探してみる >
夕食までの時間、宿の周りを歩く
荷物を解き終わると、夕食まで少しの時間が残されていました。私は誘われるように、宿の周りを歩き始めました。 蓼科の森は、歩くための道が静かに整えられています。登山というほど身構える必要もなく、ただ、ゆっくりと呼吸を合わせるように歩くだけでいい。

少し歩いては立ち止まり、木々の隙間からこぼれる光を眺める。 私は今も、日常のちょっとした違和感や「完璧さ」に過剰に敏感なところがあります。けれど、この森が持つ「不揃いな美しさ」——勝手気ままに伸びた歪な枝や、悠久の時間を経てデコボコに苔むした岩は、不思議と私の目を疲れさせませんでした。「完璧じゃなくていいんだよ」と言われているようで、ホッとするのです。
「あ、頭の中、かなり静かになってる」
気づけば、いつも自分を責め立てていた独り言が消えていることに気づきます。無理にマインドフルネスをやろうとしたわけではなく、森の複雑で、予測不能な自然の造形に意識を委ねているうちに、強迫観念が居場所を失って逃げていったような感覚でした。
森の中では、「どう行動するか」を考えるよりも、「今どう感じているか」が自然と前に出てくる。 それだけで、この旅の目的は9割がた達成されたような気がしました。
旅の楽しみのひとつ、オーベルジュの夕食
夕食は、蓼科の力強い土と水が育てた、新鮮な野菜たちが主役のコース料理でした。 ダイニングに流れるのは、静かなカトラリーの音と、控えめな話し声だけ。一皿一皿が、食べるのがもったいないほど丁寧に、かつ鮮やかに盛り付けられています。

「よし、この味覚だけに全神経を置こう」
いつもなら食事中も何かを考えてしまう私ですが、目の前の一皿と真剣に対話するこの時間は、最高の瞑想でした。素材そのものの圧倒的な甘み、鼻に抜ける土の香り、ソースの繊細な酸味。
それらをゆっくりと咀嚼するうちに、頭の中を一日中占領していた「何か正しい選択をしなきゃ」という強迫的な癖が、静かに、トロリと溶けていくのがわかりました。

「ただ『美味しい』、それだけで満たされていい」
単にお腹を満たすためではなく、日々のアレコレで鈍りきっていた五感を、一つひとつ優しく呼び戻していくような食事。最後の一口を終えるまで、私はただ、その純粋な幸福感の中に留まっていました。
蓼科の朝、静かな光の中で目が覚める
オーベルジュの朝は、驚くほど静かに始まりました。 遮光カーテンの隙間から、細く柔らかな光が差し込んでくる。かつての(調子が悪かった頃の)私なら、その一筋の光を見ただけで「今日という一日を無駄にせず、正しく過ごさなければ!」と自分を追い詰めていたかもしれません。

でも、今朝はただ、光の粒子が空気中をゆっくり舞うのを、ぼーっと眺めていました。枕元に置いた時計のチクタクという音も、窓の外の葉擦れも、すべてが他人事のように心地よい距離感でそこにあります。
「急がなくていい。何もしない私でも、ただここにいていい」
そう心から自分に許可を出せた瞬間、本当の意味で、私の硬かった心がほどけた気がしました。
オーベルジュの朝食と、そのあとの散歩
目が覚めて最初に出会うのは、窓一面に広がる圧倒的な森の緑と、丁寧に作られた朝のひと皿。時計を気にしなくていい朝食ほど、贅沢なものはありませんよね。

「今日もちゃんと、いい一日が始まる」という心地よい予感。一皿一皿に込められた温もりが、いつも強張っている私の指先から、じんわりと心を温めてくれました。
最高の朝食を終えると、私は外の空気に誘われるように、女神湖へと向かいました。

朝の湖畔は、時間がカチリと止まっているかのようでした。風はなく、水面は周囲の森と青い空を、完璧なまでに映し出している。歩くたびに、木と土の匂いを含んだ冷涼な空気が肺の隅々まで満たされ、身体の緊張がさらさらと解けていくのを感じます。
「たとえこの先また不安が襲ってきても、今の私はこんなに静かでいられる」
教科書に書いてある回復の理屈ではなく、今、この瞬間の私の身体が「大丈夫だ」と100%理解している感覚。湖を一周して戻る頃には、心の中に、見たこともないような確かな凪(なぎ)が生まれていました。
蓼科をあとにして思ったこと

蓼科をあとにする車の中で、私は自分の中に、やっぱり「小さな不安」が残っているのを、あらためて感じていました。強迫症が魔法のように消え去ったわけではありません。
けれど、それはここに来る前の、自分を支配していた絶望的な不安とは、どこか違っていました。同じようにそこにあるけれど、「それが私のすべてではない。私は私で、ここにちゃんといる」と、静かに距離を置いて見られている感覚です。大きなモンスターだと思っていた不安が、小さな小石に見えるような、そんな変化でした。
蓼科は、人生を180度変えてくれるような激しい場所というより、自分の中にずっと眠っていた「静かな帰る場所」を思い出させてくれる場所。また日常に戻って疲れ果て、脳内のボリュームが爆音になってしまったとき。私はきっと、この森の冷ややかな空気と、あの黄金色の朝食を思い出すでしょう。
もし今、あなたの頭の中の音量が、少し大きすぎて耳鳴りがしそうなら。
次の休みは、何かをするためではなく、ただ「脳を休ませる静寂」を、自分のためにプレゼントしてみてはいかがでしょうか。
あなたにとっての、疲れた心を調律してくれる場所はどこですか?
私が歩いた蓼科の森や湖の情報は、蓼科観光ナビのサイトでも見ることができます。
