今を奪っていく病気。――強迫性障害。
少し強い言い方かもしれないけれど、寛解状態にいる今、私はこの病気に対して、そんな印象を持っています。
強迫性障害がつらかった頃の私は、いつも「今」ではなく、過去か未来のどちらかに心を奪われていました。
さっき触ったものは汚れていなかっただろうか。
ちゃんと確認しただろうか。
もし、取り返しのつかないことになったらどうしよう。
起きてもいない未来を心配し、終わってしまった過去を何度も巻き戻す。
目の前にあるはずの「今」は、いつも不安の確認作業に押しのけられていました。
もちろん、不安定な日がまったくないわけではありません。それでも、以前のように一日中強迫観念に振り回されることは少なくなりました。だからこそ今、あの頃の自分を少し離れた場所から振り返ることができます。
私の場合、特につらかったのは汚染恐怖と確認強迫でした。
手を何度も洗ってしまう。
鍵やガス、電気を何度も確かめてしまう。
頭では「もう大丈夫」とわかっているのに、どうしても確認せずにはいられない。
振り返ってみると、中心にあったのはいつも、「ちゃんとできていなかったらどうしよう」「取り返しのつかないことになったらどうしよう」という焦燥感でした。
その中でも、私にはいわゆる「聖域」と呼べるものがありました。
なぜか一時期は、「携帯電話」と「財布」が別格で、この二つだけは絶対に“汚したくないもの”だったのです。
外から帰ると、携帯を除菌シートで拭く。それが一日の終わりの儀式のようになっていて、拭かないまま家の中に置いておくことは、どうしても許せませんでした。
身の毛もよだつような嫌悪感を覚える場所には、最初から携帯や財布を持っていかないようにしていました。汚れる可能性があるなら、持っていかない。触らない。近づけない。そうやって、どうにか自分の中の安全地帯を守ろうとしていたのだと思います。
今思えば、かなり不自由な生活です。でも当時の私にとっては、不便さよりも「安心を守るための工夫」でした。世界のどこかに、「せめてここだけは安全だ」と思える場所を作っておかないと、心がもたなかったのだと思います。

それだけ私は、携帯を汚さないことに情熱――いや、執着を注いでいました。
汚れが最小限になるように考えを巡らす時間。
除菌シートで拭く時間。
持っていく場所を選ぶ時間。
触り方や手順に気をつける時間。
気づけば私は、「携帯を守ること」に、かなりの精神と労力、そして莫大な時間を使っていました。
――でもある日、その携帯が壊れました。
あっけないくらい、ただの経年劣化でした。どれだけ汚れないように気をつけても、どれだけ大事に扱っても、携帯は普通に寿命を迎えたのです。
その瞬間、最初に浮かんだのはショックよりも、「じゃあ、今まであの時間は何だったんだろう」という疑問でした。
あれだけ気をつけて、あれだけ時間をかけて、世界の中でいちばん守っていたものが、こんなふうに簡単に壊れてしまうなんて。私はいったい、何をしていたんだろう。

虚無感と、言葉にできない違和感がいっぺんに押し寄せてきました。そこで初めて、私は「携帯を守っていた」のではなく、「不安から逃げる場所を守っていただけ」だったのかもしれないと気づき始めました。
もちろん、その出来事があったからといって、すぐに症状がなくなったわけではありません。相変わらず不安は湧くし、気にしてしまう自分もいました。
それでも、あのときから少しずつ、意識の根底が変わっていきました。
「この不安に振り回されて、これからも私は人生の時間を使い続けるんだろうか」
「安心するためだけに、大事な『いま』を犠牲にし続けて、本当にそれでいいんだろうか」
そんな問いが、頭の片隅に、ずっと澱(おり)のように残るようになりました。
このことに気づくまで、私は二十年かかりました。
二十年も、過去を悔やみ、未来を心配し続けて、そのあいだにある「いま」を、ほとんど見ないまま過ごしてきました。
長かったと思います。
遅すぎたのかもしれません。
けれど、それでも気づけて良かったと思っています。あの携帯の故障がなかったら、私はきっと今も同じ場所で、同じ不安のまわりをぐるぐると回り続けていたかもしれないからです。
強迫性障害は、ただ不安になる病気ではありません。安心を求め続けるうちに、今この瞬間の時間や感情まで、少しずつ削っていく病気でもあるのだと思います。
だから私は今、少しずつでも「不安をなくすこと」より、「不安に奪われていた時間を取り戻すこと」を大切にしたいと思っています。
心がざわつく日が続くとき、私は本に助けられることもありました。
そんなときに手に取ってきた本を、こちらにまとめています。
『心がざわつく日に読みたい本5選|気持ちのノイズを静かに整えるヒント』はこちら

