今を無駄にする病気。――強迫性障害。
起きてもいない未来のことばかりに心を奪われ、
終わってしまって、考えても仕方のない過去に、
ずっと縛られる。
不安定な日もあるけれど、寛解状態にいる今だからこそ、
私につきまとっていた強迫性障害という病気に、
こんな印象を持っている。
強迫性障害は、世界全体で見ると、
およそ1〜2%の人が経験するとされている病気だと言われている。
決して珍しいわけではないけれど、
国や文化によって、あらわれ方には少し違いがある。
たとえば、宗教的な戒律が強い地域では、
「正しく行えているか」「罪を犯していないか」といった不安が、
強迫のテーマになりやすいと言われている。
また、人に危害を加えることへの恐れが強い社会では、
「誰かを傷つけてしまったのではないか」という加害恐怖が、
前面に出ることもある。
強迫性障害は、同じ診断名でも、
その中身は、その国の風習や価値観の影響を強く受けると考えられている。
日本の場合、とくに多いと言われているのは、
汚染恐怖(洗浄強迫)と確認強迫だ。
手を何度も洗ってしまう。
鍵やガス、電気を何度も確かめてしまう。
こうした症状は、日本の強迫性障害の相談では、
かなりよく見られるタイプだと思う。
清潔さを大切にする文化や、
「失敗しないように」「人に迷惑をかけないように」という意識の強さが、
不安の向きを、こうした形に向かわせやすいのかもしれない。
同じ強迫性障害でも、
どんな不安が中心になるかは、その人が生きてきた社会と無関係じゃない。
そう考えると、強迫性障害は、
個人の問題であると同時に、文化の中で育つ病気でもあるのだと思う。
そして日本人である私も、例外じゃなかった。
強迫性障害がいちばんつらかった頃、
主な症状は、やっぱり汚染恐怖と確認だった。
手が汚れた気がして、何度も洗ってしまうこともあったし、
鍵や火の元が気になって、
もう大丈夫だと頭ではわかっているのに、
何度も確かめずにはいられなかった。
もちろん、それだけじゃない。
もっと細かい不安や、言葉にしづらいこだわりも、いくつもあった。
でも振り返ってみると、中心にあったのはいつも、
「ちゃんとできていなかったらどうしよう」
「取り返しのつかないことになったらどうしよう」
そんな気持ちだった気がする。
日本で多いと言われている症状と、
自分のしんどさが重なって見えるのは、
少し不思議でもあり、少しだけ納得でもある。
あの頃の私は、この社会の中で身につけた不安の向け方を、
そのまま強迫という形で抱えていただけなのかもしれない。
汚染恐怖が強かった頃、
私にはいわゆる「聖域」と呼べるものもあった。
その中でも、一時期はなぜか携帯と財布が別格で、
この二つだけは、当時どうしても“汚したくないもの”になっていた。
外に持ち歩いた携帯は、
家に帰ると必ず除菌シートで拭く。
それが一日の終わりのルーティンみたいになっていて、
拭かないまま家の中に存在することは、どうしても許せなかった。
汚いにもいろんな段階があって、
その中でも、身の毛もよだつような嫌悪感を覚える場所がある。
そういう場所には、
最初から携帯や財布を持っていかないようにしていたこともある。
今思えば、かなり不自由な生活だったと思う。
でも当時の私にとっては、
あれは不便さよりも、「安心を守るための工夫」だった。
世界のどこかに、
せめてここだけは安全だと思える場所をつくっておかないと、
心がもたなかったんだと思う。
それだけ私は、携帯を汚さないことに情熱を注いでいた。
携帯への汚れが最小限になるように考えを巡らす時間。
除菌シートで拭く時間。
持っていく場所を選ぶ時間。
触り方や手順に気をつける時間。
気づけば、「携帯を守ること」に、
かなりの精神と労力と時間を使っていた。
でもある日、その携帯が壊れた。
あっけないくらい、経年劣化のトラブルで。
その瞬間、最初に浮かんだのはショックよりも、
「じゃあ、今まであの時間は何だったんだろう」という気持ちだった。
あれだけ気をつけて、あれだけ時間をかけて、
世界の中でいちばん守っていたものが、
こんなふうに簡単に壊れるなら、
私はいったい何をしていたんだろう、と。
虚無感に近い気持ちと、
携帯を守ることに使っていた大切な時間を、
ほかのことに使えたはずなのに、という言葉にできない違和感。
その二つがいっぺんに押し寄せてきて、
そこで初めて、
私は「携帯を守っていた」というより、
「不安から逃げる場所を守っていただけ」だったのかもしれないと、
少しだけ思った。
もちろん、その出来事があったからといって、
すぐに強迫観念や強迫行為がなくなったわけじゃなかった。
相変わらず不安は湧くし、
相変わらず気にしてしまう自分もいた。
それでも、あのときから少しずつ、
意識だけは変わっていった気がする。
この不安に振り回されて、
これからも私は、人生の時間をこんなふうに使い続けるんだろうか。
安心するためだけに、
大事な「いま」を犠牲にし続けて、本当にそれでいいんだろうか。
そんな問いが、
頭の片隅に、ずっと残るようになった。
このことに気づくまで、
私は二十年かかった。
二十年も、過去を悔やみ、未来を心配し続けて、
そのあいだにある「いま」を、
ほとんど見ないまま過ごしてきた。
長かったと思う。
遅すぎたが、それでも気がつけて良かったと思う。
あの気づきがなかったら、
私はきっと、今も同じ場所で、
同じ不安のまわりをぐるぐるしていただろう。
心がざわつく日が続くとき、私は本に助けられることもありました。
そんなときに手に取ってきた本を、こちらにまとめています。
『心がざわつく日に読みたい本5選|気持ちのノイズを静かに整えるヒント』はこちら

