強迫性障害の解説と体験談を書いていこう。
そう思って始めたはずのこのブログ。けれど、ふたを開けてみれば解説記事ばかりで、体験談はずっと下書きフォルダに眠ったままだった。
二十年以上もこの病気と暮らしてきたのだから、書けることはいくらでもあるはずだ――そう思うのに、いざ向き合うと「あまりにも話が多くて、どこから切り出せばいいのか」と立ち止まってしまう。結局は、無難にまとめられる「症状や治療法」の記事ばかりを書いてきた。
もちろん、病気の性質を知ることは大切だ。けれど、この病気は解説を読んでわかるほど単純じゃない。
ある人は「鍵を閉め忘れたかもしれない」に何時間もとらわれる。別の人は「汚れがついた気がする」に一日をまるごと支配される。対象は違っても共通しているのは、たったひとつの小さな違和感が、理屈を飛び越えて生活をひっくり返してしまうことだ。ときには、人生そのものまで揺らぐ。
だから私は、この恐ろしさを残しておきたくて、このブログを始めたのだ。
――ある朝の出勤。電車の中で、私の目の前に立っていた人が豪快なくしゃみをした。いや、ほんとに豪快。ぼんやり抜け殻みたいに車内のリズムに揺られていた私を、一瞬で現実に引き戻すほどの音量だった。
その瞬間にまず浮かんだのは、「よりによって、なぜ私の前なの」。まるで座席ガチャで見事にハズレを引き当てたような気分だった。もちろん、誰に文句を言えるわけでもないから、矛先は自分へ向かうしかない。「そんな席に座った私が悪いんだ」と。
少し苛立ちを覚えつつも、「考えても仕方ない」と自分に言い聞かせる。けれど、そう言い聞かせたところで思考は止まり、止まったままじわじわとエネルギーを吸い取っていく。
やがて「ツイてない」という自責の念に重なるように、「しぶきがかかったかもしれない」という恐怖が膨らんでいく。
たぶん飛んできた。――いや、何か飛んできた“気がした”。実際には飛んでいないのかもしれない。でも、来た。確実に髪か肩に触れた……気がする。……来たよね?
そう思った瞬間、髪も服もすべて“アウト”に感じてしまう。頭の中では、帰宅後のお風呂と洗濯の段取りが勝手に再生され、出勤中なのに心だけはもう帰宅モードに突入。
そして職場に着く頃には、まだパソコンの電源すら入れていないのに、心だけがまるで一日の残業を終えたみたいにぐったりしている。
普通の人なら、ちょっと不快に思って終わるかもしれない。けれど私には、それが一日の流れをひっくり返す“引き金”になる。そんなふうに、流れが一度ひっくり返ると戻すのが難しい。
しかも、この「ハプニング」は通勤電車だけに現れるわけじゃない。日常のどこでも、ふいに襲ってくる。
スーパーで少し汚れたペットボトルを手に取った瞬間、「触りたくない」と思って棚に戻し、何も買わずに出口へ直行してしまう。新品のタオルを出した直後は「清潔」なのに、ふとした拍子に突然“汚れたもの”に変わってしまう。ドアの鍵を閉めたはずなのに、五十メートル歩いたところで「いや、本当に閉めた?」と立ち止まり、結局は走って戻る。
ほんの少しの違和感が、あっさりと生活の優先順位を塗り替えてしまう。さっきまで「牛乳を買って帰ろう」と思っていたのに、気づけば「汚染された服をどう処理するか」の作戦会議で頭がいっぱいになり、日常の予定なんてハプニングひとつで簡単に上書きされてしまうのだ。まるで、心の中の優先順位表を書き換える誰かがいるみたいに。
誰かに話せば「気にしすぎ」で終わってしまう。だから黙って抱え込む。その沈黙が二十年分、心の奥に降り積もっている。
それでも書こうと思うのは、その積み重ねこそが私の現実だからだ。専門書には載らない。けれど確かに存在した、「一瞬で一日を壊す小さな引っかかり」の数々を。
正直、これを書いたところで意味があるのか。恥ずかしい話をさらけ出しているだけじゃないか――そんな迷いは何度もよぎる。それでも、もしこの文章を読んだ誰かが「こんな地獄みたいな日々を越えて、また日常に戻れることもあるんだ」と、ほんの少しでも思ってくれるなら、それで十分だ。
回復にたどりつく道は人それぞれ違う。けれど“抜け出せる”という事実だけは、ここに書いておきたい。
私にとっては息が詰まるほどしんどかった出来事も、他の人から見れば「なんだそれ」と笑えることかもしれない。でも、情けなくて滑稽にしか見えない日常こそが、確かに積み重なってきた私の人生だった。
だから私は、この小さな引っかかりの記憶を、これからここに書き残していこうと思う。