
この「よたきちノート」は、私自身の過去の出来事や心の動き、そしてそのとき私が何を考えていたのかを、形式にとらわれず気ままに綴っていく、自由帳のような場所です。テーマも書き方も決まっていません。思い出したこと、感じたことを、そのまま書いていけたらと思います。

今回は、「見ただけなのに汚れた気がする」――そんな感覚にとらわれたときのことをお話ししようと思います。

ぜひぜひ読んでみてね。
ただ見ただけなのに——強迫性障害の“視覚ストレス”が引き起こす手洗いの衝動
私の部屋の隅には、長いあいだ使われないまま置かれたカバンがあります。
見た目は特に汚れているわけではありません。それでも私は、そのカバンを「汚いもの」と感じてしまいます。
というのも、かつてそのカバンを、自分の中で「汚れている」と思い込んでいた場所に置いてしまったことがあったからです。
その瞬間から、私の中でそのカバンは“汚染されたもの”として認識されてしまいました。
それ以来、私はそのカバンをできるだけ視界に入れないように、部屋の隅に押しやるようになりました。
強迫性障害の特徴の一つに、実際には汚れていない物でも「汚い」と感じてしまう傾向があります。そしてその感覚から逃れるために、そうした物を見えない場所に追いやることもあります。私がカバンを隅に避けたのも、まさにそのような不安から逃れようとする行動でした。
そんなある日――
ふとした拍子に、そのカバンが視界に入ってしまいました。ほんの一瞬、ちらっと見えただけ。触れてもいなければ、距離もありました。手を伸ばしたわけでも、動かしたわけでもありません。
――それなのに。
ほんの一瞬、ちらっと見えただけなのに、じわじわと不安が広がり始めたのです。
「絶対に触っていない」と頭では理解しているはずなのに、それでもカバンの映像が頭から離れず、心の中にこびりついていきました。あまりにも強烈に焼きついていたせいで、「もしかしたら触ったのに忘れているだけかもしれない」という考えが、静かに心の中に忍び込んできたのです。
ほんの1%でも触れた可能性があると思うだけで、胸が押しつぶされそうなほどの不安に呑み込まれてしまいました。ぐるぐるとその考えが回り続け、どれだけ振り払おうとしても、心は少しも落ち着きません。
少しでも不安を感じると、手を洗わずにはいられない。何度も手を洗い、赤く腫れるまでこすり続けました。
それでも、「本当に汚れは落ちたのか」「まだ菌が残っているのではないか」という感覚は、しつこく居座り続けました。
洗っても洗っても不安は消えず、心の中にはどこか満たされない感覚だけが残り続けました。
洗面台の前で立ち尽くし、水の冷たさで感覚が麻痺しても、石けんの泡で肌がひりついても、
それでも「もっと確実にきれいにしなきゃ」と、自分を追い立て続けていました。
「ただ、ちらっと見ただけなのに」
「触っていないと、ちゃんとわかっているのに」
そんな小さなきっかけで、自分を止められなくなってしまうことが、ただただ怖くて、悔しくて、情けなくて。どこにもぶつけられない思いだけが胸の奥で膨らんでいきました。
そして私は、わかっていたのです。
どれだけ洗っても、不安が本当に消えることはないのだということを。
――でも、今は少しだけ違います。
以前なら、不安が広がり始めた瞬間に、すぐに手を洗いに行っていたでしょう。
でも今は、そわそわと落ち着かない気持ちを抱えながらも、ぐっとこらえて、意識を他のことに向けることができるようになったのです。
本当は、今すぐにでも手を洗いたかった。洗えば、この不安からあっという間に解放されるかもしれない。その誘惑が、何度も心の中に忍び込んできました。
「一回だけなら大丈夫」
「少しだけ洗えば、きっと落ち着く」
脳内で囁くその声に、何度も負けそうになりました。
それでも、洗面所へ向かう自分を必死で引き止めたのです。
たとえ不安が消えなくても。たとえ胸がざわざわして苦しくても。「本当は触っていない」という事実を、何度も、何度も、心の中で繰り返しました。
気をそらすために、スマートフォンを手に取ったり、部屋の中を歩き回ったり、無理やり別のことを考えたりしました。それでも、カバンの映像はしぶとく頭の中に居座り続けます。何も手につかないまま、ただじっと耐える時間。それは短いようで、永遠にも思える、途方もなく長い時間でした。
不安は、完全には消えません。それでも、私はもう、あの日のように必死で手を洗い続けることはありませんでした。少しずつですが、不安の言いなりになる日々から、確かに距離を取れている自分がいます。
あの日、あのカバンを前にして「何もしない」を選んだその瞬間――
小さな、小さな一歩を、私は踏み出していたのだと思います。
“確信のなさ”が引き起こすもの
実は、強迫性障害の人には、「自分はちゃんと覚えている」「大丈夫だったはず」といった直感的な“確信”を持ちにくい傾向があることが、近年の研究でも指摘されています。
これは「確信の欠如(lack of confidence)」と呼ばれ、たとえ実際に正しく覚えていても、「本当にそうだった?」と不安になってしまう——そんな特徴です。
つまり、頭では「触っていない」と理解できていても、感覚のほうが追いつかない。
そのギャップが、苦しさを何重にもしてしまうのです。
私が「きっと大丈夫なはず」と思っていても、どうしても洗いたくなってしまったのも、この“確信のなさ”が関係していたのかもしれません。
どうすればこの感覚と付き合っていけるのか
「ちゃんと覚えているはずなのに、不安が消えない」
「見ただけなのに、汚れた気がして仕方ない」
そんな感覚に襲われたとき、私たち強迫性障害の人は、どうすればいいのでしょうか。
きっと答えは、「感覚に完璧を求めすぎないこと」なのだと思います。
不安や違和感が残ったままでも、「行動しない」こと。
完璧な安心感を得ようとするのではなく、不完全なまま、その場にとどまる練習を続けること。
もちろん、それはとても苦しいし、簡単にできることではありません。
でも、たとえ少しずつでも、不安に流されずにいられる時間が増えていけば――
私たちは確かに、強迫行動に縛られない自分へと近づいているのだと思います。
あの日、カバンを見て、それでも踏みとどまった私も。
たった一度きりの、小さな、小さな一歩だったかもしれないけれど。
その一歩が、少しずつ自分を変えるきっかけになったんだと、今では確信しています。

今回は、「見ただけなのに汚れてしまった気がする」――そんな強迫性障害の症状について、私自身の体験を通してお話ししてみました。
同じような気持ちを抱えている人も、きっとどこかにいるんじゃないかなと思っています。
そんな誰かに、ほんの少しでも「自分だけじゃないんだ」と感じてもらえたら、そして「少しずつでも前に進めるんだ」と思ってもらえたら、とてもうれしいです。

いつでも来てね。ぼくとよたきち、ここで待ってるよ。